【大紀元日本3月8日】諸葛亮(181−234年、字は孔明)の師匠は、水鏡先生だ。先生は、襄陽城南の水鏡荘に住み、屋敷内の庭に鶏を飼っていた。この鶏には一つの習慣があって、決まって正午頃になると三回鳴いて知らせ、水鏡先生がこれを聞くと授業を終了していた。青年期の諸葛亮は勉強が好きだったので、先生の講義をもっと聞きたいものだと、鶏が鳴くたびに残念な思いがしていた。ある日、諸葛亮は良い方法に着想し、上襦袢に小さなポケットを縫い付け、毎日この中に米を忍ばせ、この鶏が鳴く頃になると米を窓の外に撒き散らした。鶏がそれを啄ばんで再び鳴き出すまで、一時(約二時間)が経っていた。
授業時間が長引くにつれ、ついに水鏡先生はその秘密が分かった。若い諸葛亮が師匠をたばかっていたのを知った先生は、諸葛亮を一時休学処分にして家に帰した。諸葛亮が去った後、師匠の娘が「諸葛亮がこのようにしたのも勉強がただ好きだったからです。もう一回チャンスを与えてください!」と言って哀願した。水鏡先生は、諸葛亮が聡明で勉強好きなことを知っていたし、喜んでそうしたかったのだが、引っ込みがつかず、今一度諸葛亮の日常の品行がどのようなものか見てみることにし、諸葛亮が住む隆中に書生を遣わして、内々にこれを探らせた。
書生は戻ると水鏡先生に三つのことを報告した。第一に、諸葛亮の母親が冬の寒い日に凍えそうな時、諸葛亮は山に登って芝を刈って来て寝床を作り、しばし自ら休んで寝床を暖めてから、母親を床に寝かせていた。第二には、諸葛亮の家の井戸が遠く離れており、諸葛亮自身が小男であったため、水桶で水を運搬する際に桶を他人の野菜籠にぶつけて壊さないかと心配し、毎回水を汲む際に山裾を経由した回り道をし、家に帰っていた。第三に、諸葛亮が付近の青年に教えを請うていた頃、後に諸葛亮の学問がこの青年を上回った際にも虚心坦懐してこの人を待った。
水鏡先生はこれを聞くと喜び、「諸葛亮は将来の英傑だ!今すぐにでも、書生を連れて自ら隆中に赴き、諸葛亮の復学を告げに行こう」と即断した。
水鏡先生は、諸葛亮の品徳を賞賛し、自らの学識すべてを諸葛亮に伝授した。後に、諸葛亮は傑出した政治家、軍略家として頭角を現し出世するのであるが、その原因が学識にあるばかりでなく、さらに重要なのは諸葛亮自身の人品を民衆が尊敬したことだ。
(07/03/08 20:44)
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